【ep122】発達障害と大人になってから診断【今思えば該当する症状があった】

この記事を読むのに必要な時間は約 10 分です。

私は発達障害者です。
現在38歳で、タバコやお酒は嫌いで避けています。

発達障害は周知の通り先天性の疾患ですが、診断を受けたのはつい最近の37歳のときで、精神科にかかったのも職場のパワハラからうつ病を患い失業してからです。

今まで思い当たる節などがなかったかをまとめながら、私の体験談をお伝えします。

もくじ

幼少期の様子

《3歳:保育園入園》
住んでいる町から離れた場所の保育園に入園したので、周りは知らない人ばかりでした。
周りの子たちの視線を怖いと感じており、既に子供のグループができていたので壁を感じて中々溶け込めず、特定の子に依存して過ごすようになりました。

《6歳:小学校入学》
保育園とは学区が違ったため友達はおらず、全員が知らない子たちでした。
多くが地元の幼稚園出身だったため、保育園の時と同じく周りの子たちの視線を怖いと感じ、また既に仲良しのグループができていたため壁を感じていました。
ここでも特定の子に依存して過ごしていました。

勉強面では真面目に授業を聞いているはずなのに理解できないことがあり、実際に問題を解いてみると違うと言われることがありました。
その際に、どう違うのか分からず「なんで?なんで?説明してよ。」と聞くこともあり、なかなか理解を得られず空回りしていました。

運動面でも芳しくなく、器械運動・球技・集団演技が出来ず苦痛を感じていました。
箸も指先が思うような動きができない部分があり、正しいとされる持ち方が出来ません。

後に、これらの症状は発達障害のうちのひとつ『発達性協調運動障害』だとわかりました。

幼少期に感じていたこと

常に困っていたり苦痛を感じることが日常化してしまったせいか、段々とその感覚がマヒしてしまい、自分が困っていて苦しんでいるという自覚が出来なくなっていきました。

また、幼少期の頃は漠然と「死にたい」と思っていた記憶があります。
他の記憶は思い出すとその時の気分も一緒に思い出しますが、それについてだけはなぜかぼんやりと曖昧な記憶になっており、ある人から「辛すぎる記憶だから心を守るために脳がそうしてるから、触れないほうが良い」とアドバイスを受けました。

中高生時代の様子

中高生の頃になると、今思えば該当する症状や出来事が多かったと感じます。

ずっとキーンという耳鳴りが続き、身体が冷えて常にガタガタ震えるような症状がありました。

また感情面においても、ちょっとしたことで泣いてしまったり、自分でコントロール出来ないほどの怒りを感じることもありました。
怒りが湧いたときは人に当たってはいけないと自制が働いて自分の教科書を破いたのですが、これを周りの人に責められたことで辛い思いをしました。

そんな状態でも、医療に繋がることはありませんでした。
機能不全家族で育ち、例に漏れず医療ネグレストもあったのです。

中高生時代に感じていたこと

発達障害の原因は現在でもはっきりと解明されていません。
私が子供の頃は今ほど発達障害が世間に浸透しておらず、また外見で分かる疾患(ろう者や重い知的障害者など)に対しての偏見や差別が酷い時代でした。
なので、発達障害に気付いたとしても見て見ぬふりをされてきたのかなと、勝手に考えることもあります。

よく一般的には自分にとって良い記憶は覚えていて、悪い記憶は薄れて忘れていくと言われていますが、私の場合は当てはまらず、逆につらい記憶ばかりが繰り返しフラッシュバックして薄まることはありません。

青年期から現在に至るまで

25歳のとき、職場のパワハラでうつ病を発症し、ここでやっと精神科にかかる機会が訪れました。
しかし、この時はまだ発達障害という自覚もなく、自分の精神的な問題は全て成育環境に起因すると考えていたのでたずねることはありませんでした。
ドクターも障害には気付いてくれず、うつ病の治療薬のみを処方されました。

この頃は弱っていたこともあり筋肉も落ちてしまい、まともに動くことも難しい状態で人ごみに出かければ風邪をひくほどでした。
しかし、社会保障もないので生活をするためには働かねばならず、長く療養できないままほんの少しマシになったところで自分に鞭打って再度働きに出たのを覚えています

そして、次に精神科にかかったのが37歳のときでした。
その間も思い返せば受診レベルの時期は数えきれないほどありましたが、働き続けなければいけないという事情で、受診をせずに過ごしてしまいました。

当時は私自身に何らかしらの障害があると自覚していたので、子供たちに寄り添った支援をしたいと思い、発達障害児を支援する放課後デイサービスで働いていました。
しかし、子供への接し方が正反対の職員からのパワハラに心が限界を迎えてしまったことと、他の職員の会話で自分の障害が『発達障害』であると気付くことが重なり、受診を考えるようになりました。

でも、病名への確信は出来たものの中々受診には踏み切れませんでした。
正社員が自分しかいない少人数の職場だったので、うつが酷くなっても無理やり出勤しなければ回らないと思い、辞めたくても言い出せない辛い状態だったのです。
そんな時、加入している民間保険の担当者が「辞めたいと伝えないほうが職場に失礼だよ」とキツ目な言い方でも背中を押してくれたので、やっと辞意を伝えることができ、受診と療養生活へ移ることができました。
あとから聞いた話で、その担当者さん自身もうつ病の経験者でした。

もし、もう働けないのに辞められないと苦しんでいる人はこの言葉を思い出してみてください。

その後の療養生活は、私の場合は傷病手当で繋いでいます。
そういうものがない場合は、堂々と生活保護申請しましょう。
当然の権利です。

治療の様子

子供の発達障害は多数の診断窓口がありますが、大人の場合は調べても中々見つかりませんでした。
私の場合も、やっと見つけた精神科医療センターの予約が半年待ちでした。

実際に受診してみると、心理士さんや今現在も主治医として寄り添ってくれている医師の様な話の分かってくれる人たちとやっと話せたことで安堵することができました。
検査をするまでもなく、カンファレンスで発達障害(ADHD・ASD)』『うつ』『適応障害と診断されました。

一般的には、福祉関係の方から紹介されて受診する患者さんが多数派らしく、私のように自分の判断で予約をしてくるケースは少なかったので驚かれました。

具体的な治療方法ですが、カウンセリングはカウンセラーの人手が少ないことと保険が効かない治療なので選択できませんでした。
投薬治療を中心に進めることになりましたが、副作用の強い薬のため体が慣れるまで時間がかかりました。
現在もアトモキセチン(ADHD治療薬)入眠剤を服用しています。
ただ、外的な刺激には効かないので静かで落ち着ける環境を整えることも大切です。

まとめ

発達障害と言う病気は、集団生活における『みんなと一緒のことができなくてはダメ・普通でなければダメ』という枠があるために当事者が深刻な二次被害にあっているのではと思います。

個人個人が尊重される環境や、押し付けではなくそれぞれの方向性に合ったサポートがあれば問題なく生活できるとも思いますが、現状では難しいとも思います。

この病気に完治はなく、また原因となる脳も変えることができません。
よくある脳トレーニングもどこまで発達障害の脳に効果があるのか分かりませんし、学校の授業なども身に付かないままただ疲弊して傷付くだけではないかと懐疑的になってしまいます。

これからの自分の人生を守るために何ができるかを考えると、まずは環境を変えることだと思います。

同じく発達障害で悩んでいる人へ

現在はコロナウイルス流行の影響で、在宅ワークやそれを想定したサービスが急成長しています。
私の様な直接人と接する仕事が難しい人々にとっては、この流れを活かして在宅ワークに環境を切り替えていくことで過ごしやすくなるのではないでしょうか。

無理に人と接する仕事に固執する必要はありません。
少しでも嫌と感じる人や場所があったら離れて、別の環境に身を置いてみましょう。

アレルギーのある人がその物質を避けるのと同じです。
大げさな話ではなく、命に係わる可能性があるので回避するのは悪いことではありません。

ひとりで生きていける力、つけましょう。
好きな事、伸ばしましょう。
気持ちよく一緒に仕事を出来る仲間、見つけて繋がりましょう。

発達障害に限らず、大切なライフハックだと思います。



カテゴリー:体験談

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