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◎この記事の中の人プロフィール◎
【年齢】35歳、海外在住
【職業】テレビ局の社会部記者(1年で退職)⇒体調と相談しながらベンチャー企業⇒外資系IT企業の営業(6年勤め、現在は夫の海外転勤に伴い退職)
【家族構成】夫と息子の3人暮らし
もくじ
解離性健忘症
気が付いたら知らない公園の前で裸足で立っていました。
右手に握りしめていた携帯で時間を見ると夜中の0: 30頃。
電信柱の表示で住所を確認したあと、会社の同期に電話をしました。
大した事ではないと装いながら、緊張と戸惑いで声が震えたのを覚えています。
事情を知っていた同期はすぐに車で駆けつけ、家まで送ってくれました。
発症までの様子と原因

解離性健忘症と診断されたのは社会人1年目の23歳の時。
駆け出しの記者として、慣れない仕事に忙殺されていました。
何がわからないのかも理解できず、ただただ言われたことをこなすので精いっぱいでした。
先輩達は、秘密主義であまり同僚とは話さない人が多く、相談相手がいなかった私は少しずつ追い込められていたのだと思います。

ストレスの兆候か、入社して2か月たった頃にまず眠れなくなり、1日の睡眠時間は3時間程でした。
それから、食事が1日1回、コンビニのチキンと野菜ジュースのみという不摂生な日が続きました。
まだ仕事ができない自分がゆっくり食事の時間などとっていいはずがない、と思い込んだ結果でした。
そのうち、2か月で体重が10キロ落ち、高熱が出て大腸炎と栄養不良と診断されました。
それでも、「自分一人で何とかしないといけないんだ」という考え方が変えられませんでした。

ある夜、会社からどうやって自宅に帰ってきたのか思い出せないということに気が付きました。
会社から自転車で5分程のところに住んでいたのに、帰り道の工程一つ一つが思い出せませんでした。
感覚としては、今までは動画のように流れを覚えていたのに、それが切り取られて写真1、2枚になってしまったかのようでした。
それが週に何度も起こるようになりました。
自分に自信がなく、常に緊張するようになり、ついに上司に心療内科への通院を勧められました。
受診時の様子
私は、今まではどちらかというと自分に自信のある方で、難しいことに直面しても乗り越えられると思っていました。
そのため、おかしいと自覚しながらも、心療内科に通う事が受け入れられませんでした。
上司に付き添われて通院しても、医者とはほとんど会話せずうつむいたまま。

漢方や薬ををいくつか処方されましたが、自分に合ったものがなかなか見つからず、気持ち悪くなったり、全く効果がありません。
通院するたびに漢方の種類を変えたり、別の薬が処方されるたび、自分が実験されているかのような被虐的な気持ちが膨らみ、そのうち通院できなくなりました。
この頃には両親にも状況が伝わり、私は1年で仕事を辞めました。
治療中の様子
仕事も失い、精神的に病んで親にお世話になる自分が情けなくて、もう普通の人にはなれない、一生このままなんだと悲観しました。
朝起きて徘徊した形跡があると、自傷を行うようになりました。
この頃には鬱も発症していたのだと思います。
退職後の1年が一番薬を飲んでいた時期でした。
どうせ忘れてしまうからと日々の生活が投げやりになり、自分の貯金を湯水のように使いました。
でも私にとってはそれが良かったのかもしれません。
好転のきっかけ
私の両親は親身に私のサポートをしてくれましたが、お小遣いの類は一切出しませんでした。
そのため貯金が底をつく頃、好きなことをするにはお金を稼がなければいけないと焦り、地元のベンチャー企業での仕事を見つけました。
体調のことを伝えた上で、まずはパートとして週に3日働きたいと相談したところいずれ正社員として働くことを前提に、快諾いただきました。

それからは、自分の体調と相談する、無理だと思ったら恥ずかしいと思わずきちんと断る、わからないことは恥ずかしくない、と自分に言い聞かせながら働きました。
浮き沈みしながら3年ほど働いた頃、気が付いたら記憶がとぎれることがなくなりました。
心療内科に通うのは辛い時期を思い起こすので相変わらず苦手でしたが、日々、一つ一つタスクをこなしていくことで自信をつけていく作業は、新しい自分を作り上げていくようでした。
結局心療内科に通ったのは5年半で、最後の1年は弱い睡眠導入剤のみでほとんど薬も飲んでいませんでした。
自分に合った働き方や職場を見つける
昔は、山のように残業して成果を上げ、仕事で成功する輝かしい未来を想像していました。
それが合う人と合わない人がいるというのも事実で、自分は後者でした。
ベンチャー企業で5年働いた後、新たに転職しようと決めた時は、
1.平均残業時間
2.社内(面接官)の雰囲気
3.社内トレーニングの充実
4.多様な文化
という点を重視して探しました。
その結果、外資系IT企業に採用いただき、自分の求める働き方を推奨している会社で雇ってもらえたことがまた一つ励みになりました。
まとめ

解離性健忘症と初めて聞いた時、これからも記憶が喪失していく怖い病気なのかと思いました。
でもあくまでも一時的なもので、疾患している時には永遠に思える苦しい時間も、長い人生のほんのひと時だったんだなと今なら思えます。
一度壊れた自分の価値観を、新たに構築できたおかげで今の私があります。
今の自分を理解して、少しずつ新しいことを初めることが、私にとっては良い方向に向かいました。
同じ症状に苦しんでいる人へのメッセージ
今、辛くて先が見えない人がいたら、是非自分を大切にしてくださいとお伝えしたいです。
辛い今くらい、引きこもって泣いたっていいと思います。
好きなことだけにお金をかけたっていいと思います。
やりたくないことはやらなくてもいいと思います。
今は病気なだけで、あなたがダメなのではありません。
治療をしても、元の自分には戻れないかもしれません。
でも、こういう生き方も悪くないと思える、新しい自分に必ずなれると信じてください。
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